村上春樹とスピッツに共通する、「絶妙な既視感」。
- 作者: 村上春樹
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2009/05/29
- メディア: 単行本
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絶妙な既視感、という物がある。
それは「はじめて見た(聴いた)のに、生まれる前から知っていたような気がする」というものだ。
特に1Q84。
初めて読むのに、なぜか昔から知っていたような気がして(昔ながらの友人にばったり再会したような気がして)、長いのに読み進めてしまう。
そして必ず場面が印象に残り、かなり前に読んだはずなのになぜか忘れることがない。
長い長い青豆と天吾のボーイ・ミーツ・ガールの部分よりも、そこまでに行き着く事件の方が鮮明に記憶に残っている。
たとえば、「タイガーをあなたの車に」。
ふかえりの「空気さなぎ」と「リトル・ピープル」。
意味は分からない。大人になった今でも意味が判明しない。
読み返せば分かるのだろうが生憎手元に本がない。
なんとなく「再生するもの」と「不気味なもの」ということだけしかわからない。
(実際、ほかの作品で村上春樹は小人を不気味なものとして扱っている。
象工場で働く青年の身体に入って踊り、女が腐敗する幻覚を見せる嫌がらせを行う。
読み返してみれば、小人の一人称が「あたし」から「俺」に切り替わる部分があった。どうしてなんだろう。
一説では「小人の本性」が出たからだとか…。)
リトル・ピープルたちは言った。「ほうほう」
他の村上作品とは逸脱した世界観を放っている。
というより、この本に関して、しっくり合うであろうジャンルを私は見つけ出すことができない。
スピッツの日なたの窓にあこがれて。
「メリーゴーラウンド」のリフレインが耳に心地よい。
寒い冬の昼の陽だまりの中で聴くと最高である。
ずっと前から聴いていたような気がする。
あの錯覚はいったい何なのだろう。
この現象にデジャブ以外の名前があれば教えてほしい。