鋭利な発言と無慈悲な距離感
言葉との距離が近くなりすぎて、軋轢を引き起こしている。前は程よく距離を取って生きることが出来たのに、今はちょっとでも気を抜くと抗議文がやって来てしまう。
誰かに注意を払い続けるのが辛くて体調を崩してしまった。無自覚な言葉に勝手にペースを崩される自分に腹が立っている。だからリハビリ代わりに入力している。
Editorialは大衆に向けた非大衆の作品だと思う。本来なら密やかに聴かれるべきものだが、作り手が人気を得てしまったがために純粋に聴くことが難しくなった音楽であり、文学だ。絵画や小説が文学であると同様に、音楽も文学であるべきだ。予備知識はいらない。ただ感じ取るだけでいい。
私はOfficial髭男dismがサカナクションやPeople In The Box、amazarashi、米津玄師に匹敵する文学的強度を獲得するとは思っていなかった。否定的な意味ではなく、予想外だった。
アポトーシスとLost In My Roomは後世に語り継ぐべきものだ。残酷なまでに生々しく創作の苦悩と死への甘美な倒錯が加わり、強度を備えた楽曲なのだから。
彼らは「生と死の狭間にいる」。
もう後には引き下がれない。
誰にも止められない。無論、私にも。
作品が勝手に動き出す。
近い未来、作者の意図を離れた場所で、
予想だにしなかった事件として現れるだろう。賽は投げられた。
Editorialは諸刃の剣だ。誰かを救済する薬にも殺める毒にもなりうる性質だ。
だからこそ、私はその危うさについて警告したい。否定ではない。純粋にどう転がるか分からないものを手にしてしまっているのだ。
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大衆には多かれ少なかれ、非大衆も含まれている。それを人はマジョリティと呼ぶ。サカナクションがアイデンティティやマイノリティをキャッチーなスローガンに変えてしまった。大小なり画期的な出来事だ。
彼らは動画配信でさえ、新たなプロジェクトとしてパッケージ化しようとしている。
いつか今よりずっと文学的な動画が開発されるかもしれない。近未来にありうる話だ。
マイノリティの中のマジョリティが、屈折した形で表現されるようになってしまった。誰かが修正して、真のマジョリティを解明してほしいと思う。朝井リョウの正欲みたいに。
上田岳弘のキューが好きだ。
絶望の中に潜む些細な幸福を、乾いた文体で説明してくれるから。すべてが一体化した未来の仮想空間を、現代に文章で再現してくれるからだ。
情報をファストフード化してはいけなかったのかもしれない。後に健康被害が起きることも知らず、ただ黙々と出された餌を食べ続ける機械を量産して、数々の罪を生み出してしまったのだから。
いつの間にか舞台装置は切り替わった。
今は新しい人間が踊り子になり、恍惚した瞳でステップを踏んでいる。
未来は探すものであって、見つめるものでも願うものでもない。