思考は揺らめく道化師の羽

読んだ本と琴線に触れた音楽を綴る場所。かつて少年だった小鳥にサイネリアとネリネの花束を。

溶けた夕暮れ、魂と祈りを乗せ

世界泥棒

世界泥棒


死ぬ直前にもし本が一冊読めるとしたら、私は迷わず桜井晴也の世界泥棒を手元に置くだろう。

固定観念を鮮やかに破壊している、今のところこの世で一番好きな小説だ。

スピッツのワタリを聴きながらページを捲る。

ポップコーンを食べながら、あるいは寝転がりながら、読みまくったせいか四隅が見事に擦り切れている。

幽霊たちと野人たちがはびこる中、子どもたちは銃を打ち合い、世界は夕暮れのまま固定されたまま動かない。

柊と主人公、あや、真山くんと意味ちゃんたちが語る話は「哲学」に近い。

百瀬という「決闘」の首謀者の真の目的は?

彼は淋しくて、せめてこの地球という惑星だけでも美しいままであってほしいと願っていたのでは?

そう解釈した。

現実から逃げ、自分を守るために平気で嘘をつくあやのほうが愚かではないのではないか。

国境を越えたところには名も知らぬ子供たちが埋められた墓場がある。

いやに無邪気に歌われるあのフレーズを思い出す。「戦争があるんだって!」

子どもたちは真っ先に犠牲者となる。そこに半端な恵みなどというお涙ちょうだいの話などない。

しかし、祈りはある。緑色をした猫の蛆の光と、それが成虫になった少年のまばゆい光だ。

妹が語る言葉に、私は嗚咽が止まらなかった。

この惑星のいきものはみんな壊れやすかったり、死にやすかったり、失われやすかったり、

そこなわれやすかったりして、

とにかく、とても繊細でとても傷つきやすくて、少しなにかをしただけですぐに精神を狂わせてしまったり、

肉体を失ってしまったりするんです。


私は彼の次の作品をぜひ読んでみたい。例え読みづらくとも。難解であろうとも。

一つの大きな叙事詩のようなこの物語が存在しなければ、とっくに死んでいただろう。

強烈なほどまでに退廃的で、残酷でいて愛に満ち溢れている。

私なんぞがこの物語の真の意味を語るには、100年早すぎる。(と言いつつ語っている。)


がっつり彼に影響されたのは言うまでもない。

「愛は祈りだ。僕は祈る。」

好き好き大好き超愛してる。 (講談社文庫)

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もう、本当に「良かった」としか言いようがなかった。

固い言葉では何とでも言えるんだけれど、

この本に出会えたことに凄く感謝したい。

誰かのために愛するということは、こんなにも愛しく、美しい。

ガラスのように繊細で壊れやすくて、でもとてつもなく愛しい。

石になった夜シミや、発光する寄生虫に蝕まれた知依子でさえ。

愛に決まった形なんてないということをとても分かりやすい言葉で教えてくれる。

きっと、私はやってはいけないこと(思ったことをズバズバいうこと)をしちゃったのだろう。

それをし続けてしまったんだと思う。特徴的な、非常識な言動や行動で人を傷つけた。

そんな私のような人が一人でも自分の行動を考え直してもらえれば、うれしい。

「愛は祈りだ。僕は祈る。」

一見狂愛じみた言葉だけれど、読み進めればそうじゃないって分かるはずだ。

どうか、僕が僕のままあり続けられますように。

kikUUiki(初回限定盤)

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どれほど聴いたのだろうか。

シーラカンスと僕

未だに、これを凌ぐ音楽を知らない。

真っ青なシーラカンスが、尾鰭を動かし水に溶ける。

夜の暗い街の中を一匹の深海魚が泳ぐ。

その世界はあまりにも幻想的で、それでいてどことなく物悲しかった。

アルクアラウンドよりも、アイデンティティよりも、表題作と呼ぶべき隠された金字塔。

曖昧な若さを丸め込んで、ゴミにする。

全てを投げ捨てて、一へ戻る。

今に至るまで邦楽を聴き続けているのは、この音楽を抜く音楽を知りたい、と思ったから。

もしかしたら抜くかもしれない、というアーティストもちらほらいるけれど、まだまだ、私はこの曲から逃れられそうにない。

いつになれば、この世界を超えて行けるのだろうか。

それか、もう抜け出しているのか。

真相は分からない。

正直、初期のサカナクションの方が、個人的には好きだ。

ネイティブダンサー、アドベンチャー、表参道26時、エンドレス、仮面の街。白波トップウォーター、ワードとサンプル。

どうか、僕が僕のままあり続けられますように

もう、前のような琴線に触れる音楽は出てこないのかな。

ちょっとさみしいな。

少年性を秘められた物語を探す。

少年性を秘めた作品は消費されにくい。

と同時に、危うい。

純粋であるがゆえに、いつ何かの衝撃に耐えかねて崩壊してしまうか分からないからだ。

例えば、それはスピッツ

初期のサカナクション

現在のストレイテナー

砂糖を甘く煮詰めたような音楽。

分かりにくいなら、「少年のような声で歌われた音楽」と言った方が良いか。

ただ少年性だけを追求したものではない。それはただの商業音楽だ。ハイトーンボイスだ。

大きな違いはそこに心を、感情が籠っているかどうかだ。


性別を超え、切なげなそれらは永遠に年を取らぬ物語であり、消費を知らない。

それらを歌い続けるものはその一瞬だけ声を切り取られ、硝子質の剥製として残る。

歌う彼らは歳を取るが、歌っている一瞬だけは歳を取らない。

本能に忠実なので、狂気も併せ持っている。

普遍的な事実は消費されにくく、また同時に半永久的に残り続ける。

俗にいう「エモい」=感情的、もしくは感傷的な音楽がそれに当てはまるのだろう。

感情と鬱は相反のようで、実は同じものの表と裏なのだ。


恋愛でいえば、純愛は意識的に好まれ、ドロドロとした不倫は潜在的に好まれる。

ちょうど、好奇心や怖いもの見たさで本のページを捲るのと似ている。

本能に勝てない、と言った方が良いだろうか。

彼らの物語は前者だ。意識的に不純を取り除いた前者。

または、前者と後者を組み合わせたもの、だろうか。

彼らは高確率で硬質の黒目がちの瞳を持っている。

本来なら遠いはずの「死」が近い者しか持たぬ世界。

普通の人が一生かかっても行けない場所。

それに彼らはいとも容易く辿り着いてしまうのだ。


辿り付いたものだけが「金字塔」を打ち立てることができる。

それが才能とも呪いとも揶揄される宿命だ。

批判も当然伴うだろう。

強靭な作品(男らしい、女らしい)作品と「性別を超えた(中性的な)」物語。

私はそれらを秘めた作品を集め続けている。

今も。そして、これからも。

果ててしまうまで、ずっと。

セトリ至上主義。

セトリ(セットリスト)の選曲と、アルバムの選曲にこだわるのが昔からの習慣だ。

なぜこだわるのか。

単純だが、自分が好きな曲を演奏してほしいからに他ならない。

だから今年、二、三のアーティストが最高傑作のアルバムを作っているので、羨ましくてならない。

今ライブに行くことができる人は凄く恵まれていると言っていい。

アルバムが良いということは、そこで引っさげて行われるライブの選曲が100%良いのである。

ということは、今この時期に最高の音楽を演奏してくれるということである。

ライブにいけないのなら、お金を貯めてライブDVDを買えばいい。

いくら時間がかかってもいい。一年ぐらいしてから買ってもいい。現に私がそうしている。

お金を貯めて、好きなアーティストにここぞとばかりにつぎ込む。こんな幸せなことはあるだろうか。

自分が一番好きなアルバムの、一番好きな選曲を手に入れることができれば本望だと思っている。

今年KEYTALKやオーラルに行ける人は運が良いと思う。テナーもしかり。

雨のパレードもIvyも神がかっている。

反対にセトリがアレだったらいくら好きなアーティストでも行かないということもある。

それは誰かは言わない。言ったらその瞬間、ファンの方に迷惑をかけそうだから。

一回セトリにこだわって音楽を聴くのも良いかもしれない。

納得がいかないのなら、自分で選曲をして一人DJを楽しむのもありだと思う。淋しい?そんなことはない。むしろ楽しい。

消費されない作品を作るためのただ一つの決まりごと。

昔から考えてきたことがある。

消費されない作品を作るために欠かせないのは、死の匂いだと思う。

死の匂いがなければ、長く続く作品は作れない。

ふらりとどこかに消えてしまうような儚さ。

今日行ってくると挨拶をした人が、何日経っても戻ってこないような感覚。

もしくは「死んでしまうかもしれない」と思わせる描写。

主人公、つまり筆者の存在が限りなく消えていて、そこに情景だけが残っているような作品。

水のように、普遍的な描写。

一見新しそうに見えて、実は根っこは保守的で、王道をなぞった古典的な作風。

そして仄かに漂うエロさ。

それらが長く愛される作品の共通点だと思う。

不確かな世界に向けて二つのさよならを

「二つのグッドバイについて、話をしようか。」

グッド・バイ (新潮文庫)

グッド・バイ (新潮文庫)

バスの中で揺られながら、本を読んでいた。

太宰治の「グッドバイ」。

そう、未完の小説である。

私の手元にあるのは前の持ち主が一生懸命線を引き引きした文庫本で、

読んでいると作者ー、太宰治自身の苦悩が手に取るようにわかる。

そして、垣間見える人間の愚かさ。

医療用エタノールの水割りを「サントリイウイスキイ」なんて呼ぶ場面には、哀し過ぎて滑稽とさえ思えた。

人を内心で疑ってばかりの卑屈な男が見るも無残に女に溺れ、

酒とクスリに漬かり、落ちぶれてゆく様を描いた「人間失格」とはまた別の雰囲気がある。

フォスフォレッセンスの「なんて花でしょう」という言葉の余韻が消えない。

この言葉、和訳すれば「燐光」である。

何故このような言葉を太宰は選んだのだろう。

なぜ、なぜという問いが尽きない。

冬の花火の数枝の「日本の人はなぜ、こんなにも指導者になりたがるのか」と問うシーン。

何故好きなのか。それは教えるほうが、教えられるよりも都合が良いからだ。

言いたいことを言いたいだけ言うことを教えると勘違いしている人たちにとっては、その方がよっぽど心地いい。

批評せれてちっとも高く評価されない自分のこと、プロレタリア文学を「ひどくて目がしらが熱くなって読めない」と言い切り、

時代を「あほらしい」とばっさり切り捨てる潔さ。

なんだ、いつの時代も人の考えることは皆同じなんだ。

この短編集が太宰の独白そのものだった。


この本を読んだことがない人でも、このタイトルに聞き覚えのある方は感が良い。

そう、サカナクションのシングル、グッドバイ。

グッドバイ

グッドバイ

ここには多分ないな


この世界から何を切り出して歌うのか。

山口一郎が不確かなりにも、自分自身で編み出した「人間」「東京」の可笑しさと哀しさ。

不確かな果実の中には何が詰まっているのだろう。

まだ見たことのない未知の世界か、それとも思い出したくもない人々の嘲笑か。

それは果実の中を切り出したものにしか分からないのだろう。

それでも彼は歌う。哀愁を背負ったものにしか分からぬ声で歌い続ける。

歌わないと世界には伝わらないから。

私たちという外側の人間に伝わらないから。

「見つけてしまった」人間が歌う、自分自身の生き様。

その哀切な声で彼は今、何を切り出すのだろうか。

ありふれた幸せと大切な別れ。

わざと変えられたライブでの歌詞に、私は何を見出すのだろう。


人間はなんて空しい生き物なのだろうか。

そして、人間はなんて儚くとも強い生き物なのだろうか。

二つのグッドバイはそう伝えている。


ああまだ読み足りない、聴き足りない。

そう思える七夕の夜でした。