思考は揺らめく道化師の羽

読んだ本と琴線に触れた音楽を綴る場所。かつて少年だった小鳥にサイネリアとネリネの花束を。

不確かな世界に向けて二つのさよならを

「二つのグッドバイについて、話をしようか。」

グッド・バイ (新潮文庫)

グッド・バイ (新潮文庫)

バスの中で揺られながら、本を読んでいた。

太宰治の「グッドバイ」。

そう、未完の小説である。

私の手元にあるのは前の持ち主が一生懸命線を引き引きした文庫本で、

読んでいると作者ー、太宰治自身の苦悩が手に取るようにわかる。

そして、垣間見える人間の愚かさ。

医療用エタノールの水割りを「サントリイウイスキイ」なんて呼ぶ場面には、哀し過ぎて滑稽とさえ思えた。

人を内心で疑ってばかりの卑屈な男が見るも無残に女に溺れ、

酒とクスリに漬かり、落ちぶれてゆく様を描いた「人間失格」とはまた別の雰囲気がある。

フォスフォレッセンスの「なんて花でしょう」という言葉の余韻が消えない。

この言葉、和訳すれば「燐光」である。

何故このような言葉を太宰は選んだのだろう。

なぜ、なぜという問いが尽きない。

冬の花火の数枝の「日本の人はなぜ、こんなにも指導者になりたがるのか」と問うシーン。

何故好きなのか。それは教えるほうが、教えられるよりも都合が良いからだ。

言いたいことを言いたいだけ言うことを教えると勘違いしている人たちにとっては、その方がよっぽど心地いい。

批評せれてちっとも高く評価されない自分のこと、プロレタリア文学を「ひどくて目がしらが熱くなって読めない」と言い切り、

時代を「あほらしい」とばっさり切り捨てる潔さ。

なんだ、いつの時代も人の考えることは皆同じなんだ。

この短編集が太宰の独白そのものだった。


この本を読んだことがない人でも、このタイトルに聞き覚えのある方は感が良い。

そう、サカナクションのシングル、グッドバイ。

グッドバイ

グッドバイ

ここには多分ないな


この世界から何を切り出して歌うのか。

山口一郎が不確かなりにも、自分自身で編み出した「人間」「東京」の可笑しさと哀しさ。

不確かな果実の中には何が詰まっているのだろう。

まだ見たことのない未知の世界か、それとも思い出したくもない人々の嘲笑か。

それは果実の中を切り出したものにしか分からないのだろう。

それでも彼は歌う。哀愁を背負ったものにしか分からぬ声で歌い続ける。

歌わないと世界には伝わらないから。

私たちという外側の人間に伝わらないから。

「見つけてしまった」人間が歌う、自分自身の生き様。

その哀切な声で彼は今、何を切り出すのだろうか。

ありふれた幸せと大切な別れ。

わざと変えられたライブでの歌詞に、私は何を見出すのだろう。


人間はなんて空しい生き物なのだろうか。

そして、人間はなんて儚くとも強い生き物なのだろうか。

二つのグッドバイはそう伝えている。


ああまだ読み足りない、聴き足りない。

そう思える七夕の夜でした。